秀吉の陣に信長死去の急報が届く

天正十年六月三日

1582年6月22日

1582-06-22(ユリウス暦)/1582年 夏・6月下旬

現在の暦(グレゴリオ暦)では 1582-07-02

秀吉の陣に信長死去の急報が届く

天正十年六月三日(1582/06/22)の亥の刻(午後9〜11時ごろ)、備中の秀吉の陣に信長切腹の注進が届いた。

解説 AI作成

川角太閤記(C)は、注進の到来を三日の亥の刻とし、秀吉が急使を蜂須賀彦右衛門に預けて人に会わせず、続く飛脚も追い返したのは、翌朝に高松の城主が切腹する約束があったからだと記す。江戸時代の逸話集の単独の記述で、同時代の書状での確認は取得できていないため推定として扱う。秀吉が信長の死を伏せたまま和睦を進めた、という筋立ては、この逸話集の記述に拠る。

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原文 AI作成

信長公御切腹天正十年午の六月二日備中へ御切腹の注進は同三日の亥の刻其早飛脚は蜂須賀彥右衞門に御預被成其したゝめ樣は一間所へ押籠人に合なに能々彥右衞門念を可入もの也定跡より知音の方より追々注進可有之候右に一人の到來にて上樣御切腹は相聞え候自是二三里人を御出し置候處に如案注進狀雨のふることく也その狀迄を取飛脚をはそれより跡へ追返よ高松の城主長左衞門所より明日四ツ五ツの頃御陣の下へ舟をつけ切腹可仕候間下々以下御たすけ被下候へとの約束に候

書き下し AI作成

信長公御切腹は、天正十年午の六月二日。備中へ御切腹の注進は、同三日の亥の刻。その早飛脚は蜂須賀彦右衛門に御預けなされ、その認め様は、「一間所へ押し籠め、人に会はせず、なにとぞ能々彦右衛門念を入るべきものなり。定めて跡より、知音の方より追々注進これあるべく候。右に一人の到来にて、上様御切腹は相聞こえ候」。これより二、三里に人を出し置き候ところに、案の如く、注進状、雨の降る如くなり。その状までを取り、飛脚をば、それより跡へ追ひ返せ。高松の城主長左衛門所より、「明日四つ五つの頃、御陣の下へ舟をつけ、切腹仕るべく候間、下々以下御助け下され候へ」との約束に候。

現代語訳 AI作成

信長公のご切腹は天正十年午の年、六月二日のことである。備中へその注進が届いたのは同月三日の亥の刻であった。その急使は蜂須賀彦右衛門に預けられ、扱いは「一間に押し込めて人に会わせぬよう、彦右衛門はよく念を入れよ。このあとも知人から次々に注進が来るだろう。いま一人が到来しただけで上様の切腹は知れた」という指示であった。そこで二、三里先まで人を出しておくと、案の定、注進状が雨のように来た。書状だけを取り上げ、飛脚はそのまま引き返させよ、と命じられた。(というのも)高松の城主長左衛門から「明日四つ五つの頃、御陣の下へ舟をつけて切腹するので、下々の者の命はお助けください」との約束があったからである。

根拠資料一覧