川角太閤記(C)は、長左衛門が約束どおり舟を着け、使者に下々の助命を確かめたのち、腹を十文字に切って松本平蔵が介錯した、と記す。日付は引用部にないが同頁の「四日に城主切腹」から六月四日の朝と判断した。豊鑑(C、底本不明・原本未照合)は清水氏一族の切腹を六月二日朝と明記し、日付が対立するため両 Claim を残す。長左衛門を一般に知られる清水宗治とみる同定は、取得した史料に宗治の名がないため別名として併記するにとどめた。
原文 AI作成
志水長左衞門うけ給此上は御助可被成事何の疑か可有御座候見局不及申に御兩人慥に御覽被成候得と申もあへす腹十文字にかき切候ところに松本平藏介錯仕候
書き下し AI作成
志水長左衛門、承り、「この上は御助けなさるべき事、何の疑ひかあるべく御座候。見届けは申すに及ばず、御両人、慥かに御覧なされ候へ」と申しも敢へず、腹十文字にかき切り候ところに、松本平蔵介錯仕り候。
現代語訳 AI作成
志水長左衛門は(使者の言葉を)聞き、「こうなった以上、(下々の者を)お助けくださることに何の疑いがありましょう。見届けるまでもございません。お二人ともしっかりご覧ください」と言い終わるやいなや、腹を十文字にかき切り、松本平蔵が介錯した。
原文
六月二日の朝筏を組。清水はらから取乗堤の方へ近く漕よせ。自害の様人々見給へとよばはり腹切てうせぬ。