光秀の軍勢、老ノ山から桂川を越えて京へ向かう

天正十年六月二日

1582年6月21日

1582-06-21(ユリウス暦)/1582年 夏・6月下旬

現在の暦(グレゴリオ暦)では 1582-07-01

光秀の軍勢、老ノ山から桂川を越えて京へ向かう

天正十年六月二日(1582/06/21)未明、光秀の軍勢は老ノ山から桂川を越えて京へ向かった。

解説 AI作成

信長公記は、六月朔日の夜に老ノ山へ上り、右は山崎・摂津への道、左は京への道で、左へ下って桂川を越えるころ夜が明けかかった、と記す。川角太閤記(C)は、桂川で火縄の扱いを触れ、「今日から天下様に成られる」と触れ回ったと記す。原文は「六月朔日 夜に入」の続きで、二日未明とするのは「夜も明方」の語に基づくAIの判断。

人物

場所

参考文献

原文 AI作成

者共は火繩一尺五寸にきり其口々に火をわたし五つ宛火先を逆樣にさげよとの觸也扠桂川を乘越候事一そこにての觸には今日よりして天下樣に被成御成候間下々さうり取以下にまていさみ悅候へとのふれなり

書き下し AI作成

(鉄砲の)者ども(は)、火縄を一尺五寸に切り、その口々に火を渡し、五つ宛、火先を逆様に下げよとの触れなり。さて桂川を乗り越し候事。そこにての触れには、「今日よりして天下様に成らせ給ひ候間、下々、草履取り以下までも、勇み悦べ」との触れなり。

現代語訳 AI作成

(鉄砲の)者たちは火縄を一尺五寸に切り、それぞれの口に火をつけ、五本ずつ火先を逆さにして下げよ、との触れであった。こうして桂川を乗り越えた。そこでの触れには「今日から(主君が)天下様におなりになるので、下々の草履取りまで、勇んで喜べ」とあった。

原文 AI作成

六月朔日 夜に入老之山へ上り右へ行道は山崎天神馬塲攝津國皆道也左へ下れは京へ出る道也爰を左へ下り桂川打越漸夜も明方に罷成候

書き下し AI作成

六月朔日、夜に入り、老之山へ上り、右へ行く道は山崎・天神馬場・摂津国の皆道なり、左へ下れば京へ出づる道なり。ここを左へ下り、桂川を打ち越え、ようやく夜も明け方に罷り成り候。

現代語訳 AI作成

六月一日の夜、老ノ山(老ノ坂)に上った。右へ行く道は山崎・天神馬場から摂津国へ通じる道で、左へ下ると京へ出る道である。ここを左へ下り、桂川を渡るうちに、ようやく夜が明けかかってきた。

根拠資料一覧