家康、堺で変を聞き、宇治田原越えで退く

日付の記載なし(六月三日条の後に記載)

日付未確定

家康、堺で変を聞き、宇治田原越えで退く

家康は、和泉の堺で信長父子の最期を聞き、宇治田原越えで退いた(日付の記載なし)。

解説 AI作成

信長公記は、家康・穴山梅雪・長谷川竹が堺で変報を聞いて宇治田原越えで退く途中、一揆に遭って穴山梅雪が殺され、家康と長谷川竹は桑名から舟で熱田に着いた、と記す。この条には日付がなく、六月三日の安土の記事の後に置かれているだけなので、日付は決めず「日付未確定」とした。同時代の日記である家忠日記(A)などでの確認は、本文を取得できておらず未了である。

人物

場所

参考文献

原文 AI作成

德川家康公 穴山梅雪 長谷川竹 和泉之堺にて 信長公御父子御生害之由承取物も不取敢宇治田原越にて被退候處一揆共さし合 穴山梅雪生害也 德川公 長谷川竹 桑名より舟にめされ熱田湊へ船着也

書き下し AI作成

徳川家康公・穴山梅雪・長谷川竹、和泉の堺にて、信長公御父子御生害の由を承り、取る物も取り敢へず、宇治田原越えにて退かれ候ところ、一揆ども差し合ひ、穴山梅雪生害なり。徳川公・長谷川竹は、桑名より舟に召され、熱田湊へ船着きなり。

現代語訳 AI作成

徳川家康公と穴山梅雪、長谷川竹は、和泉の堺で信長公父子が亡くなったとの知らせを聞き、取るものも取りあえず宇治田原越えで退かれたが、途中で一揆の者たちと衝突し、穴山梅雪は殺害された。徳川公と長谷川竹は桑名から舟に乗り、熱田湊に船で着いた。

根拠資料一覧